#FFFFFF | 学生時代夢中になったことの話

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決めたお題に沿ってブログを書いてみよう、という試みシリーズ。

今回は、 学生時代夢中になったことの話 について。茉莉子さんのブログ( 学生時代に夢中になったこと #FFFFFF #f0f0f0 - 半分の引き出し )を拝見して、懐かしくなって書きたくなってきたお題です。そういえばわたしも勉強するのが楽しくなったのは大学に入ってからだったな、と思い出したので、大学生の頃にフォーカスします。

勉強

ブログで何度か書いたことがあるんですが、映画研究を専門にしていました。

karg.tokyo

これを勉強というと他の学部の人から怒られそうですが、最終的に卒業論文で学部表彰をいただく程度には熱中したものです。

映画研究といっても、通った大学は芸術大学ではなくごく普通の総合大学で、とある文系学部の専攻のうちの一つ。最初から映画を勉強しようと思っていたわけではなく、一年次の成績と希望によって専攻の振り分けが行われる学際っぽい学部だったので、大学に入ってから選んだものです。

選んだ理由

その頃すでに映画は好きではありましたし、育った家は割とよく映画を観る家庭ではあったと思いますが、映画が好きで好きで専攻を選んだわけではありません。英語で学ぶ何かが良いな、と思ったのが一番大きなウェイトを占めている気がします。

元々英語が得意で、通った高校が国際系の学科だったのですが、その過程で言語は結局ツールでしかないと気がついたんですね。進学先を選ぶとき、英語が好きだからという理由でよく選ばれるように思われる、外国語学部だったり、文学部で英米文学を学ぶ、みたいな学び方はなんとなく違うなぁと思っていたところがあって。高校は一日中英語の授業があるような日もあるところで、理系の学部に進学するには理系科目の履修が足らなかったというのもあって、選びきれなくて学際系の学部に進みました。

何かしらの形で建築に触れていたいなと思っていたので、美術史とか芸術学を専攻するのもありだな、と思いつつ、のちの担当教員となる先生の顔が好みだったので進んだ、と理由としてはだいたいそんなところです。

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フランス映画を中心としたヨーロッパ映画を中心に研究するゼミでした。これは卒業旅行でいったフランスの一風景。

映画研究について

わたしの経歴を見たときに、映画研究ということはやっぱり映画の制作をされたりされていたんですか、ととてもよく聞かれます。実際、短い映画を制作する授業もありましたし、撮っている時間も編集している時間もそれなりに長かったです。卒業して久しい今、結婚式のムービー役に任命されるぐらいでしか直接の役には立っていませんが……。

わたしの場合、映画を撮っている時間よりも遥かに長く映画を観ている時間だったり、それと同じくらい文献にあたったり、他学部の講義を受けている時間が長かったです。映画はまだ100年そこそこの浅い歴史しかなく、それでいて絵画や音楽、文学など、複合的、複眼的な要素で成立する文化なので、映画そのものから学ぶ以上に周辺分野から学ぶことがとても多いもの。実際にわたしも、学生時代の多くは自分の学部の学舎ではなく建築学部の学舎で過ごしていました。

新しいことを学ぶときにはその周辺の知識も踏まえて複眼的に学びたい、というのはたぶん昔からの性質で、そういうわけで映画研究という分野はわたしにとって相性が良かったのかなという気もします。

映画を見るということ、あるいは良い映画とは

所属した研究室の教授が『年間映画200本観なければ人間じゃない』ということをおっしゃる、今の時代だともしかするとアウトな発言かもしれないんですがとにかくそういう方で、そういう方のもとに育ったのでとにかく映画はたくさん観ました。ある程度の数を観てみて気がついたのは、そしてあらゆる芸術において通じるものなのだと思いますが、良い作品を嗅ぎ分ける嗅覚は一定数の作品に触れてみないと養われないということ。レンタルビデオ店で棚の端から順に借りて観まくったり、1日に映画館で3本はしごして観たり、そうしたことの積み重ねで、いわゆる名作とされているものとは何なのか、良い映画とは何なのか、という輪郭がぼんやりと見えたようなそんな気がします。じゃあ良い映画とは何なのか、と聞かれるとうまく説明できないので、これはきっと長い人生の中で言語化できないか考えていくことになるんだろうなと思っています。

余談ですが卒業論文で題材として取り扱ったのはSF映画だったので、レンタルビデオ店のSFの棚に異常に詳しくなりました。今でもSF映画は大好きです。

学内ボランティア

始めたきっかけは忘れてしまったのですが、教材を点訳したり、ノートテイクを請け負ったりするボランティアを定期的に引き受けていました。ちょうどわたしの代が一期生というか、学内に制度ができた最初の年で。わたし自身あまり目が良くないこともあって、点字は覚えておいて損はなかろう、その程度の動機だったと思います。

教材の点訳は、教材のテキストを専用のソフトにかな表記で打ち込んでいくことで専用のプリンターから印字すると点字が出力されてくるんです。それを順番を間違えないように紐で綴って納品するというのが仕事内容でした。

わたしはどちらかというとノートテイク、とりわけ聴覚に不安のある学生に同伴して講義に入り、講義の音声を文字起こししていくことを得意としていていました。二人ひと組で授業に入り、相互に補完し合いながら少しでも多くの情報を残すことが仕事で、制度の事例紹介をするために県外出張に行ったりすることもちょこちょことありました。

ボランティアをする側の学生同士が仲良くなるのもそうですが、制度を享受する側の学生やその担当教授とも仲良くなるので、普通に学生生活を送るよりは豊かな経験をさせていただいた気がします。特に自分では絶対に選ぶことのなかったであろう他学部の授業を一緒に受講できるのは、知的好奇心が満たされてかなりラッキーでした。

アルバイト

教職課程を取っていたわけではないのですが、個別指導塾の講師のアルバイトを4年間やっていました。中学時代に少しだけ通った塾の個別指導部門が実家のそばと大学のそばにたまたまあって、そのご縁で働くことになったという全然面白くない理由からです。学生時代は実家を離れて生活していましたが、人手不足を理由に平日は大学近くの教室で働き、週末は実家近くの教室で働いて、という働き方に。

わたしが教えていたのは、(わたしが拒否していた)数学以外のほぼ全科目を下は小学1年生から上は浪人生まで。生徒二人につき講師一人が担当するよくある形式だったので、小学生の国語と高3の受験英語を同時に教えるみたいな場面も結構ありました。講師の数があんまり多くなかったので、大学受験の英語を教えていることが多かったかな。受験シーズンにはわたし自身の受験シーズンよりもはるかにたくさん英語の勉強をしていたような記憶があります。

中でも夏期講習(8月)、冬期講習(12月〜1月)のシーズンは本当に忙しくて、毎年その頃の記憶はあまり残っていないです。普段受け持っている担当生徒も大幅にコマを増やして受講しますし、普段は受け持っていない生徒が受験シーズンに長期休みの集中講義を受講するパターンが多くて。朝から晩までまとまった休憩時間なくぶっ通しで働くような感じで、コマとコマの間の短い時間の間にロッカールームで慌てて薄皮パンを口に詰め込むような働き方をしていました。それが週6日、ひと月ほど続くんですが、今思えば普通にブラック企業の働き方っぽくてウケますね、ウケませんが……。

お給料は時給制ではなく、担当したコマごとに単価が決まっている形だったので、時間外にしていた準備のことを思うと多分最低賃金を大幅に下回っていたのではないかなぁ。小学生ばかり担当する講師とお給料が一緒だったことに文句ばかり言っていましたが、なんだかんだで4年働き続けました。1年目に教えた中学3年の生徒の大学受験まで関わることができたりして、自分の子供でもないのにひとりの子の人生の節目に長く寄り添えるのは教育系のアルバイトならではだったなと思います。

自分ひとりだと腕が2本しかなくて、差し伸べられる手は限られてしまうんですけど、自分が教えた生徒が大学に合格して、アルバイト講師として戻ってきてくれると、差し伸べられる手が2倍になるんですよね。自分が強くなることもさることながら、人を育てることやフォローして強くなってもらうこと、に対する関心の原点だと感じています。


おわりに

総括してみると、映画を見ることとアルバイトにほとんど命を燃やしていたので、それ以外にあまり大学生らしいことはしていないかもしれません。当時交際していた相手も同じバイト先で講師をしていて、長期休みは二人揃ってアルバイトに溶かしていたので、似たもの同士だったんでしょうね。その分、忙しい合間にした花火のことだったり、アルバイト終わりにそのまま神戸の夜景を見に行ったり、とささやかながら大事な思い出はかなり鮮明に覚えているような気がします。

よければぜひ、これを読まれた方の学生時代の思い出も知りたいです。